「やめるんだ」
静かな声がした。同時に空を斬る音が耳元で止まる。そのまま何も起こらない。首筋に冷たい空気を感じるだけだ。
おそるおそる目を開けてみると、レイピアがルーディーの首に触れるか触れないかのところでぴたりと止まっていた。
ルビーはルーディーを見ていなかった。その視線はまっすぐ前へと見据えられている。
背後からコツコツとこちらへ近づいてくる足音がした。
「こんなところで剣を振り回しちゃいけない。剣をおさめるんだ」
先程と同じ声だ。声からすると若い男のようである。
ルビーはじっと相手を見つめたまま動かない。赤い瞳にはとまどいの感情が交じっているようにもみえる。
「いい子だから。剣をおさめるんだ」
その声はどこまでも優しい。そしてどこか有無を言わせない響きを持っている。ルビーは悔しそうにレイピアを腰の鞘におさめた。
ようやく動ける状況になってルーディーはうしろを振り返ってみた。
野次馬の輪から中へ一歩踏み出して立っていたのは、灰色の服を着た色白の若い男だった。声によく合うおだやかな表情をしながら、
こちらへゆっくりと歩んでくる。
「それでいいんだ」
二人の目の前に来ると、彼はルビーに向かって微笑んだ。
次に視線をルーディーの方へ移した。
ルーディーは立ち上がった。男性にしては小さい。ルーディーと視線の高さも体格もほとんどかわらなかった。
見た目はルーディーや夜のチャンとほとんど同年代に見えるが、雰囲気からすると少年……というよりは青年だろう。
「彼はどうだい?」
チャンのことを言っているのだろう。チャンは倒れてから少しも動く気配を見せなかった。
「チャン、大丈夫?」
ルーディーが肩を軽くたたくが、反応はない。もう一度たたいても結果は同じであった。
「もう少し強く刺激を与えた方がいいね」
ルーディーの隣に膝をついた青年は、チャンの頬を平手で強く打ちつけた。
「うっ……いってー」
弱々しい声をもらしたチャンはぶたれた頬を軽くなでながら起きあがろうとした。あちこちを打ちつけているため、顔をしかめている。
ルーディーはチャンを支えて上半身を起こしてやった。
チャンはルビーの腰におさめられたレイピアを見た。それからルビーの隣にいる青年を見て眉をひそめた。
青年はチャンのいぶかしげな様子に気づいたものの、気にはしていないようであった。
「大丈夫かい?」
「……痛え」
チャンの正直な返事に青年は少し笑った。
「この子が迷惑をかけたね」
当のルビーはむっつりとしたまま悪びれた様子もなくそっぽを向いている。
「反省してないみてえだけど」
チャンの相手を挑発するような態度にルーディーはヒヤリとした。せっかく助けてもらったのに、けんかを売っては失礼だ。
あとできちんと叱っておかなければいけない。
しかし、青年は少し苦笑しただけであった。
「申し訳ないと思ってるよ。あとで僕が言い聞かせておくよ」
本当に申し訳なく思っているのかどうかはわからない。青年はあくまでも微笑んだままだ。感情のつかめない人だ、
ルーディーは青年を見つめた。
「じゃあ、行こうか」
青年はくるりと一八〇度回転すると、彼が来た方へと歩き出した。ルビーはチャン、次にルーディーをひとにらみしてから、
青年を追いかけた。
「あのっ!」
ルーディーの声に青年は立ち止まって後ろを振り向いた。
「失礼なことを言ってすみませんでした。それと、助けていただいてありがとうございました」
お礼を言うのを忘れていたのである。
引き止められてお礼を言われるとは思っていなかったのか、青年は少し驚いたようだった。彼は微笑みながら軽く首を左右に振った。
そして再び野次馬があけた道を通って去っていった。
二人の姿が見えなくなると、野次馬達もほっとしたように一人、また一人とその場を離れていった。
一方でルーディー達のそばにやってくる者もいた。
「無事だったか? 怪我はなかったか?」
「あの子は知り合いかい?」
「人に狙われるような生活をしてきたんじゃないのかい?」
次々に質問を浴びせかけてくる。あまりの勢いにルーディーは何も答えることができなかった。
それでなくてもルーディー自身がわからないことの方が多い。
「どいてくれ」
ルーディーが返答に困っていると、ルーディー達に詰め寄る人々をかきわけてやってくる影があった。
声の主が目の前に現れると、チャンは相手をきっと睨んで蹴りつけた。
「ルーディーが大変な目にあってたんだかんな。どこ行ってたんだよ、バカトランス!」
バカと言われたトランスは呆けた顔でチャンを見ている。次にルーディーを頭の上からつま先まで見る。
「思っていたより大丈夫みたいだな」
その言葉にチャンは再びトランスを蹴りつけた。衝撃が先程打ちつけた頭に響いたのか、チャンは頭を抱えてうずくまった。
「全然大丈夫なんかじゃねえよ」
ルーディーとトランスの目があった。
「私は大丈夫。でもチャンが……」
何があったんだ、と聞きかけてトランスは辺りを見回した。新しい人物の乱入に人々は「やっぱり三角関係か」
「子供はどっちの子だ」などと自分達の身の危険が遠ざかった分、想像を好き勝手にふくらませていた。
これではさっきのチャンの冗談ではないか。ルーディーは肩をすくめた。トランスもあきれ顔をしている。
「とりあえず、ここを離れよう。それから詳しく話を聞く」
殺されかけた少女と銀髪の子供はあまりに有名になりすぎていた。当初、トランスの車まで戻る予定だったが、
少し歩いては街の人に取り囲まれるためトランスの知り合いが経営しているという宿の一室を借りた。
チャンは身体のあちこちを痛めていたため、トランスにひねられた腕も含めて簡単に手当をしてもらった。
説明は主にチャンがした。それから夜だったら勝てた、少なくともトランスに左腕をやられていなければあんなヘマはしなかった、
そもそもトランスがいればあんなことにならなかったと話はトランスへの不満をぶちまける場へと変わっていった。
「悪かったな、それでルーディーを殺そうとした女というのはどういう奴だ?」
「瞳が赤くてねー、政府関係っぽい」
トランスが眉をひそめた。
「政府?」
「止めに入った奴がいたって言ったじゃん。そいつが政府の奴だった」
また政府だ。
この三日間で何度目だろう。
「あの人のこと知ってたの?」
「どっかで見たことある気もするけど、よくわかんない。政府でまともに表に出てくるのってコールヴェル将軍だけでしょ。
将軍じゃなくてもおやじばっかりじゃん」
将軍の他に数人か表に出てくるが、名前まではよく知らない。決してルーディーが無知なのではない。
ルーディーが住んでいたところではそれくらい政府は遠い存在だったのである。
「じゃあ、なんで政府って?」
「服の襟についてた紋章が政府のだった。でも、下っ端の兵隊ってかんじじゃなかったな」
なるほど。だからチャンは彼に対してつっけんどんな態度をとっていたのだ。
トランスは眉間のしわをさらに深くする。
「政府か……やっかいだな」
「あ、そうだ。あのむかつく女、ルーディーにそっくりだったんだよ」
「ルーディー、そうなのか?」
ルーディーは無言で頷いた。
彼女のどこまでも深い憎しみの感情が脳裏に焼きついて離れない。
「知り合い、ではないようだな」
「うん。でも……一度だけ会ったことある」
「もしかして、お前の首を絞めた奴か?」
ルーディーは頷いた。
「それってどういうことだよ。あの女に会ったことあんの?」
チャンが身を乗りだした。
「あの時も……殺されそうになった」
ルーディーはわずかにうつむいた。赤い瞳を思い出すだけで恐い。
「ルーディー、お前さえよければ一昨日何があったのか話してほしい」
「トランス、何言ってんだよ。一昨日ってレスボンが消えた日だろ。ルーディーにはつらいんじゃ……」
「わかっている。だが、ここまで政府が絡んでいるとなると、何があったのか知っていた方がいいように思う」
ルーディーが顔をしっかり上げると、トランスはまっすぐこちらを見つめていた。
できれば一昨日あったことは忘れてしまいたい。しかし、自分一人で抱えきれることでなくなってきているのもうすうすと感じていた。
現にチャンはルーディーをかばって怪我をしたのである。これまでの行動でトランスやチャンが政府の行動に注目していることもわかって
いる。政府に関与するかもしれないことならば、一つでも多く知らせておいた方が彼らのためになるだろう。
「わかった、話す」
少し声が震えていたかもしれない。
「感謝する。ただし、無茶はするな」
トランスの言葉に頷いたルーディーは、ぽつぽつと語りだした。
トランスもチャンも難しい顔でルーディーの話を聞いていた。特にチャンは話が進むにつれ表情が厳しくなっていった。
「それで、お前を助けた女はどうした?」
「一晩一緒にいてもらった。朝にはもういなかった」
アズのことはルーディーを助けてくれた人で、彼女も街を狙ったのは政府で
ルーディーとルビーが似ていると喋っていたと説明した。
「チャン、どうした?」
話が一区切りついたところで、トランスが声をかけた。あれだけうるさいチャンが、ルーディーが話しはじめてから一言も
喋っていない。明らかにおかしい。
チャンは上目遣いにルーディーを見た。
「確認したいんだけど、ルビーって奴は指輪から光が放たれてから急に現れたんだよね?」
「うん、そう」
「それまでに人のいた気配は?」
「ない。それまではどんなに周りを見回しても人なんていなかった」
チャンは立てている膝にあごを乗せると「うーん」とうなった。
「何かわかったのか?」
「あのさあ、これは俺の勝手な憶測なんだけど……」
二人の視線を感じて、チャンはもごもごと言った。
「すごくありえないって思うかもしれないけど……」
「いいから早く言え」
チャンの煮え切らない態度に、トランスはチャンを睨んでせかした。
チャンはあぐらに座り直すと、一つ息を吸って決意したように言った。
「……ルビーって奴、ルーディーの『影』なんじゃないかな」
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朱き月の民