き月の民
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第1章
第9話  生きている事実
「一体、お前を何をやらかしたんだ?」
 そう言ってトランスはハンドルにもたれかかった。
 チャンの言うとおり、ルーディーの影はなくなっていた。足下三六〇度、どこを見渡しても影はなかった。 試しにわかりやすく動いてみても、ルーディーの足下だけ同じ色の砂地が広がっていた。
 ルーディーはもう何も言えなくなっていた。ただただ、呆然と砂の上にできるはずの影を探していた。
 トランスと待ち合わせていたため、チャンが言葉を失ったルーディーをずるずると引っぱってきた。そして、 ことの次第を聞いたトランスの第一声がこれだった。
「オレがさー、たまたまコイン見つけてしゃがんだから気づいたんだよ。ルーディーが目の前に立っても、暗くなんねえんだもん。 何かおかしいと思って足下見たらさあ……消えてたんだよね」
 チャンは後部座席から身体を乗りだして、トランスの座席をバンバン叩きながら力説した。
「チャン、座席を叩くのはやめろ」
 トランスは身体を起こして、エンジンをかけた。
「私、何もしてない」
 車が街を出てしばらくしてから、ルーディーはぽつりと言った。
 ルーディーは混乱しつつも、今までの自分の行動を振り返ってみた。
 そりゃ、小さい嘘をついたりしたことはあるが、世間から避難されるようなことはしていないはずだ。まして、 こんなことが起きるような大きなことは。
「何もしていないのに、指輪の色がぬけるか? 影がなくなるか?」
 トランスの口調は責めているというよりも、あきれているようであった。
「何も心当たりない」
 ルーディーはうつむいて、膝の上のこぶしを握った。指輪が太陽の光に反射して透明の光を放っている。
「ねえ、私このままで大丈夫なのかな」
「さあな」
 一瞬、車内が静まりかえり返った。
「トランス、そんなふうに即答するなんて冷てえよ。こういう時は嘘でも『大丈夫だ』って励ますもんじゃないのか?」
「チャンも、大丈夫じゃないって思ってるんだ……」
 再び車内はエンジンの音だけが響いた。
 チャンがバンバンとトランスの座席を叩き出した。
「オレはそんなこと思ってねえよ。大丈夫だよ。ほら、今だってこうやって生きてるんだし」
「じゃあ、このまま影のない一生を送るってこと?」
「それは……まあ、な。どうにかなるよ。弱気になるなって。世の中ありえないことなんていくらでもあるんだから、 大丈夫、大丈夫」
 ますます、座席を激しく叩くチャンにトランスが顔をしかめた。
「チャン、やめろと言ったはずだ」
「お、悪い悪い」
 叩いていたお詫びなのか何なのかは知らないが、チャンは座席の叩いていた部分をなでた。 座席だから痛みを感じるはずはないにもかかわらずである。
「今、お前はルーディーと会話しているのだろ。俺は関係ない。叩くならルーディーの座席にしてくれ」
「何それ? 私の座席が叩かれるんだったらいいって言うの?」
「何が起ころうと、今ここにお前がいるということが事実だ」
「は?」
 質問の答えとは全く違う言葉に、ルーディーは最初何を言われたのかわからなかった。
「影がなくても生きていけるかなどいうことは、俺は知らない。でも、ここにお前がいるのは事実だ」
 そこで初めてさっきの話に戻っていることがわかった。
「影がなくて不安なら取り戻すまでだ。原因を探れば何とかなるだろう。ただ悩んでいるだけでは、何も変わらない」
 トランスの言葉にチャンは大きく頷いて、座席を叩きながら大声を出した。
「そうだよ。やっぱ大丈夫だよ。取られたら取り返すまで。人生何とかなるさ、何とかするさ、だよ」
「チャン、俺の話を聞いていないだろ」
「ん? オレはちゃんとトランスに同意して……」
 チャンはそこまで言うと何となくジンジンする自分の右手を見た。その前にはトランスがいた。
 トランスの座席を叩くというよりは、無意識に右手でものを叩いていたようだ。
「二人とも、ありがと」
――それでもあなたは今生きている。
 彼女はそう言った。だから「生きろ」と。
 ――今ここにお前がいるということが事実だ。
 トランスとアズの言っていることは同じだった。
 それに加えてアズは言っていた。
 ――正直、私は何故ここにいるのかがわからない。
 ――私にはこれしかできない
 そう言って彼女は歌い続けている。自分のできることをしながら生きている。
 だから、自分もできることをやればいい。できるかわからなかったら、とりあえずやってみればいい。
 自分は様々な人に支えられている、そう思うと涙腺がゆるんできた。外の景色を見るように二人から顔を背けると、 必至で涙をこらえた。

「なあ、今日は次の街で休もう。」
 後部座席でゴロゴロしていたチャンが、急に起きあがって言った。
 まだ陽は傾きかけたばかりだ。このまま走れば、日没過ぎには目的のシュリンクへつくはずである。
「そうだな。俺もお前達といるとすごく疲れる」
 チャンはずっと喋っていてうるさいからわかる。しかし、である。
「それ、どういうこと? なんで私もカウントされてるの?」
「どうしたら指輪の色が消えたり、影がなくなったりする? お前と一緒にいると疲れる。いや、すでに俺は疲れた」
 ならば、実際に被害を受けた私の方が疲れたと言いたい。
 街へ着いてまず、適当に宿を見つけた。
 トランスが一部屋、ルーディーとチャンで一部屋ということになった。ルーディー一人よりは、 子供でもチャンがいた方がいいというのはトランスの弁。確かにそれもあるのだろうが、単に一人になりたかっただけかもしれない。
 部屋へ行くと、ルーディーはベッドに倒れ込んだ。二日ぶりの布団の感触は心地よかった。
 一方、チャンはベッドの上で跳ねたり、クローゼットを開けたりとせわしなく動いていた。部屋の中のものを一通りいじり終わると、 チャンはまどろんでいたルーディーを揺さぶった。
「オレさ、これから知り合いんとこに遊びに行ってくるから。夜も帰り遅くなると思うけど気にしないで」
 そう言うと、ルーディーが返事をする前にチャンは部屋を出ていってしまった。
「まったく、落ち着きがないんだから」
 疲れがたまっていたせいか、ルーディーはそのまま眠ってしまった。
 二時間ほど睡眠をとってから、トランスに誘われて夕食をとりに行った。チャンのいない食事は静かだった。食後、 ぐるりと街を歩いてから宿に戻った。
 チャンが帰ってくるのを待つつもりだったが、ルーディーはいつの間にか眠ってしまっていた。
 寝てからどれくらい時間が経ったのかはわからない。
 誰かが部屋の中に入ってきた気配がした。最初はチャンが帰ってきたのだと思っていたが、チャンの足音はもっと軽かった気がする。 寝ぼけまなこで音のする方を見て、ルーディーは自分の目をよくこすった。
 暗闇の中動いていた影はチャンではなかった。トランスでもない。トランスよりもやせた大人の影だった。
「誰っ?」
 影がびくんと動いて、ルーディーの方を見たようだった。
「ルーディー、どうした?」
 思ったよりも大きな声を出していたらしい。
 トランスの声が聞こえたかと思うと、部屋のドアが開いた。トランスは影を見つけると、素早く影に近づき手をひねりあげた。 そのまま自分の体重をかけて相手を床に押しつけた。
「痛っ」
 侵入者の声は、男のものだった。
「ルーディー、電気つけろ」
 トランスの言うままに、ルーディーは起きあがって部屋の電気のスイッチを入れた。
 黒い肌に銀髪のルーディーと同い年くらいの少年だった。トランスに左手をひねられ、 膝で背中に体重をかけられてその上銃まで突きつけられていた。少年はそれを逃れようと必至に暴れていたが、 一向にトランスの手はゆるまなかった。
 トランスはルーディーの方を見た。目が「この少年を知っているか」と聞いていた。ルーディーは黙って首を左右に振った。
「ここへ何の用で来た?」
 トランスは少年の腕をさらにひねり上げた。
「いてっ。痛えよ。やめてくれ! トランス!」
 自分の名前を呼ばれてトランスは、一瞬手をゆるめえる。
「なぜ俺の名前を知っている?」
「マジ痛いよ。離してくれ」
 少年は自由な方の手で床をドンドン叩いた。これが精一杯の抵抗のようだ。トランスは顔をしかめて、銃を少年の頭に押しつけた。
「他の客の迷惑になる。静かにしろ。俺の質問に答えるんだ」
 少年はあきらめたように暴れるのをやめた。そして、絞り上げるようなかすれ声で言った。
「オレだよ、オレ! チャンだよ!」

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