き月の民
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第1章
第1話  日常
 レスボンという小さな田舎街にその家はあった。
 先ほどからトントンとテンポよく野菜を刻む音が響いている。
 そのすぐそばで一人の少年がその妹とおぼしき少女からクマのぬいぐるみを奪い取った。
「あっ、わたしのクマさん〜」
 少女は慌ててクマに手を伸ばすが、少年はクマを高く担ぎあげてしまう。少年は十代半ばに満たない程度。一方、 少女はようやく十を越えた程度。成長期に入った少年が高く担ぎ上げたクマに少女の手が届くわけがない。
 野菜を刻む音は相変わらずテンポよく続いている。
「枕代わりに使うだけだよ」
「枕じゃないもん」
 少女は眉毛を八の字にした。
 トントン……。
「けちくせえな、お前。それくらいいいだろ」
 トントントン……。
「クマさん潰れちゃうでしょ。お兄ちゃん、自分の枕使ってよ」
 トントントントン……。
「お前、最近生意気だぞ」
 トントントントン……。
 ドスッ。
「うるさーい!!」
 堪忍袋の緒が切れたルーディーは切っていた野菜の本体に包丁を刺して怒鳴った。
 その気迫に少年と少女はルーディーを見つめて一瞬黙る。
「さっきからギャーギャーとうるさいわよ。掃除しなさいって言ったでしょ」
「「だってー」」
 相手が悪いんだ、と言わんばかりに二人はお互いを指さした。
 ルーディーは眉をつり上げて二人を睨んだ。
「だってもこうもないの!」
 二人とも誰が一番恐いのかを知っていた。そして、逆らうとどうなるのかも。二人はしぶしぶと散らばって姉の言うとおりに掃除を 始めた。
 一人やる気を見せているルーディーは、弟妹の背中に向かって言った。
「何せ今日はお父さんとお母さんが帰ってくるんだから。気合いを入れなきゃね。私も料理頑張るぞー!」
 えいえいおー、と包丁を持っている方の手を高く挙げる。
 何か安定が悪いな、と思ったら包丁の先に野菜の塊が突き刺さったままだった。

 ルーディーの両親は総合研究所で働いている。研究機関というのはあまり外部に情報を漏らしたがらない。 だからルーディーは両親がどんな分野で何を研究しているのかを知らない。両親は自分達の持っている技術を伝えると 同時に共同研究をするために南西の街バラドへ一年間赴任していた。
 その間、ルーディーは両親の代わりに家事を行い、弟妹の面倒をみてきた。
「ただいま」
 両親の声が玄関からしたのは正午を少し過ぎた頃であった。弟妹がバタバタと玄関に走っていく。 ルーディーは少し遅れて両親を迎えに出た。
「元気にしてた?」
「お土産買ってきたからな」
 両親は弟妹と二、三言交わしてからルーディーの方を見た。一年ぶりに見た両親は去年より少し老けていたが、 二人とも元気そうであった。
「おかえり」
「私達のいない間、家のこと全部やってくれてありがとうね」
 もともと家事は好きだ。感謝されるほどのことではない。
「ううん。料理作ってあるから早く食べよ」
 ルーディーに促された両親はダイニングの方へ向かう。ダイニングは食欲をそそるにおいに満ちていた。
 角切り肉の胡椒焼き、野菜とフルーツのサラダ、白身魚の塩味スープ……テーブルの上には豪華とはいえないが、 食べ応えのある料理が並んでいる。
「ずいぶん張り切ってくれたな、せっかくだ。先にいただこう」
 家に帰ってくると何をするよりも先に着替える父親がダイニングテーブルに座った。
 一年ぶりの家族全員の食事は二時間にも及んだ。それだけお互いに話題がつきなかったのである。
 妹と片付けをしたあと、ルーディーは葡萄酒がないことに気づいた。父親が好きなのは「ラスマーロ」という銘柄で、 少し癖のある辛口の酒だ。高級品なので普段から飲むわけにはいかないが、父親は何かと特別な日にはこの葡萄酒を口にする。 せっかく両親が帰ってきた日なのだから用意しておこうと思っていたのに、すっかり忘れてしまっていたらしい。
 ルーディーは時計を見た。「ラスマーロ」を売っている店まではバイクを飛ばして四十分ほどかかる。これから行っても急げば 夕食の時間には間に合う。
 外へ出るためにエプロンを脱ぎながら、両親へ声をかけた。
「ラスマーロがなかったから、ちょっと買ってくる」
「ルーディー、そんなに気をつかわなくていいよ。せっかくだからみんなで買いに行こう」
「いいの。お父さん達はゆっくりしてて。他にも買ってきて欲しいものがあったら言って」
 妹が自分の食べたいものを言った。
 父親はまだ納得がいかないようである。
「しかし……」
「あなた、いいじゃない。せっかくだから今日はルーディーに甘えさせてもらいましょう」
 母親は紙にペンを走らせてリストを作った。
 玄関でそのリストを渡すとき、母親の視点はルーディーの左手の中指に注がれていた。
「おばあちゃんからもらった指輪、ちゃんとしているのね」
「うん。肌身離さずつけてる」
 母親は少し真剣な顔で指輪を見つめていた。ルーディーが不振そうな顔をしていることに気づくと、 何もなかったかのように言った。
「そうだ、バイクに乗って行くんでしょ。なら事故に遭わないようにこれを持っていきなさい」
 藍色の小さな革袋がルーディーの手にのせられた。表には銀色の文字が一つだけ書かれていて、首にかけられるような長さの紐が ついている。
「交通安全のお守りよ。ルーディーもバイクに乗るようになったって聞いたから、バラドで買ってきたの」
 さっそくお守りを服の下から首からかけた。
「ありがとう。では、安全運転で行ってきます」
 ルーディーは敬礼した。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
 母親は微笑んだ。
 これからまた家族の日常が始まるんだ。
 ルーディーは指にひっかけたバイクのキーをくるくる回しながら家を出た。
 これが自分の家族に関する最後の記憶になるとは知る由もなかった。

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