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手のひらの

 昔、まだ世界に海が存在しなかったころ、人々は自由に世界を行き来することができました。しかしながら、 たった一カ所だけ人の立ち入らない地域がありました。
 世界の北のはずれ、氷の女王と呼ばれる人がいるところです。
 人々が北の地に近づこうとしないのは、北の地が一年中氷におおわれているからだけではなく、女王が人々からおそれられていたからでした。 女王が触ったものはみな氷になってしまうのです。
 そんなある日、一人の若者が北の地にやってきました。彼は好奇心の強い冒険家で、 誰も見たことのない女王に会ってみたいと思っていました。
 氷の洞窟は若者が想像していた以上に寒いところでした。若者を拒むかのように、冷たい風が全身を突き刺します。それでも、 若者は女王に会いたい一心で洞窟を進んでいきました。
 洞窟の一番奥にその姿はありました。
 痩せきった青白い肌に紫色の唇。凍ってパサパサになってしまった髪。 感情を映し出さない瞳は濁っているようにも澄んでいるようにも見えました。
「女王」
 若者は叫ぼうとしましたが、喉は乾燥しきって声が思うように出ませんでした。
 女王は若者に気づくなり、眉間にしわを寄せて言いました。
「お前は誰だ」
 若者は名乗り、簡単に自己紹介をしました。
「何をしに来た?」
 若者は女王の不機嫌そうな顔を気にする様子もなく答えました。
「あなたに会いに来たのです。渡したいものもあります」
 女王が首をかしげると、若者はにぎっていた手をそっとひらきました。
 姿をあらわしたのは一輪の小さな花でした。それは洞窟へ来る前に、若者が摘んできたものでした。
「ここは花が育つには寒すぎますから。あなたは花を見たことがないと思いまして」
 洞窟は全面氷で出来ていますし、北の大地自体も雪で覆われています。花は寒い地方でも咲くと言われるものでしたが、 摘んでから数日が経っていたため、花はすでにしおれて黒っぽく変色していました。
 どうぞ、と若者は手を差し出しました。
 ところが、女王は首を横にふりました。
「受け取ることはできぬ」
 若者は慌てて手を引っ込めました。
「すみません、女性に枯れた花を渡そうとするなんて失礼でしたね」
「違うのだ」
「では、花がお嫌いでしょうか?」
「私のうわさは聞いているだろう。私がこれを受け取ったら、瞬間に花が凍ってしまう」
 女王の視線はずっと若者の手のひらに注がれていました。愛おしそうな、それでいて悲しそうな、そんな表情でした。
「人々は怖いと言いますが、あなたは優しい方なのですね」
 若者が言うと、女王はわずかに目を丸くしました。そして、「変わった者だ。今度冒険の話をしに来るがよい」と言って去っていきました。

 それから若者は北の地と町を行き来しました。女王に会っては今まで訪れた場所の話をしました。 女王から何か話しかけてくることはありませんでしたが、女王は表情を変えることなく、じっと話に耳を傾けているのでした。
 同時に、若者は毎回花を持っていきました。工夫を重ねて少しずつ状態を保ったまま見せることが可能になりました。しかし、 女王が花を受け取ることは決してありませんでした。そして、どこか遠くを見るような視線を花と若者に向けるのでした。

 ある日、若者は言いました。
「女王、お願いがあります」
「なんだ」
「あなたに直接ふれたいのです」
 あまりに突然の発言に女王は一瞬息を止めた後、みるみる顔つきが厳しくなっていきました。
「馬鹿者! 自分の言っていることがわかっているのか」
 洞窟中の氷がビリビリと振動するような怒鳴り声にも怯えることなく、若者はうなずきました。
「人は温かいものです。人のぬくもりを知らずにいるのはとてもさびしいことです」
「お前がここに来てくれる、私はそれで十分だ。それに私はさびしいなどという感情はもったことがない」
「そうでしょうか」
 若者は女王の手をとりました。
「何をするのだ」
 女王は手をふりはらおうとしましたが、若者は力強く女王の手をにぎりしめていてびくともしません。
「花を眺めるだけのあなたはいつもさびしそうです」
「自分が今何をしているのかわかっているのか」
 若者は目を女王から離すことなくほほえんでいました。にぎった手がぶるぶるとふるえていて、寒さにたえていることがわかりました。 そして、女王にふれた部分から薄い氷におおわれて凍り始めていました。
「やめるのだ」
「私はあなたに会った時からずっと考えていたのです。どうしたらあなたからもっと人間らしい表情を引き出せるのか。 どうしたら笑ってもらえるのか」
「頼む、離してくれ」
「そんな顔をしないでください。一緒に笑ってください」
 若者は微笑んで首を横にふると、女王の頬を両手で包みこみました。手はすでに凍って冷たくなっていましたが、 暖かく女王を包み込んでくれる気がしました。

 しばらくすると、目の前の若者は完全に凍っていました。とても幸せそうな顔をしていました。
 女王は冷たくなってしまった若者をそっと抱きしめました。
『笑ってください』
 若者の言葉がいつまでも耳の奥でこだましています。
 女王は目の前の若者を真似て笑おうとしましたが、顔はどんどん歪んでいきました。
「笑うのだ、私は笑うのだ」
 そう言い聞かせるたびに、体の中が熱くなるのを感じました。女王はそれがどういう気持ちなのかはわかりませんでしたが、 若者への気持ちだということはわかりました。体の奥から発せられる熱はどんどん大きくなって、それはしずくとなって、一粒、 二粒とこぼれ落ちていきました。
 涙は地面にしみこむと、表面の氷を溶かしていきました。それでも女王は泣きやむことがありませんでした。氷の大地は少しずつ溶けていき、 形を失っていきました。
 そして、溶けた氷は世界を覆いました。後にそれは海と名付けられました。海がしょっぱいのは女王の涙が混じっているからなのだそうです。



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