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いつもここで
 私は二宮金次郎のうちの一人である。
 「うちの一人」という表現に疑問を抱く人は多いだろう。しかし、私は偽物でもないし、単なる同姓同名さんでもない。
 私はれっきとした銅像の二宮金次郎である。
 薪を背負い、本を片手にしたおなじみのスタイルで立っている。
 二宮金次郎像は小学校に建てられることが多いようだが、私がいるのはとある高等学校だ。昇降口のすぐ前、 校舎に背を向け校庭がよく見える。すべては初代校長の趣味によるものである。
 ここに来て以来、生徒に限らず様々な人が成長し旅立っていくのを見てきた。私が見たのは彼らのほんの一瞬のことだけれど、 それでも色々なことを知ることができた。
 これからある一組の男女について語ろうと思う。
 少女は私のことをこよなく愛してくれた。
 一方、少年は私のことをこよなく嫌っていた。


「金次郎さん、おはようございます」
 一人の少女がぺこりと頭を下げる。
 これが彼女の日課だった。
 彼女の名前は細田千波美ちゃんという。今年、この高校に入ってきたばかりの一年生である。
「ちなちゃんてば、また今日も挨拶してるの?」
 これも日課。
 声の主は千波美ちゃんと仲の良い珠ちゃんだ。彼女達はいつも一緒に登校する。
 千波美ちゃんは入学以来、毎日欠かさず登下校時に銅像である私に挨拶をしてくれている。
 私としては嬉しい限りだ。しかし、珠ちゃんの気持ちもわからなくもない。
 銅像に向かって毎日挨拶する学生など、めったにお目にかかれるものではない。長年ここに立っている私も初めての経験であった。
 二人が私の前を通るのは人気の少ない時間帯が多かったが、「銅像に挨拶する子」は密かに噂になっていた。とはいっても、 とりあえずは進学校の学生。噂にはしても、あからさまに千波美ちゃんをけなしたりするような馬鹿者はいなかった。
 たった一人を除いて。

 五月も終わり、そろそろ梅雨入りしようかという時期だった。
「金次郎さん、おはようございます」
 いつものように千波美ちゃんが私に挨拶をしてくれた。私は心の中で「おはよう」と言葉を返す。
 いつもなら、ここで珠ちゃん恒例のツッコミが入るはずだった。
 ところが、ツッコミは思わぬ所から入ってきたのである。
「オマエ、馬鹿か?」
 制服を少しだらしなく着込んだ少年が千波美ちゃんと珠ちゃんの後ろに立っていた。
 こんないい子を馬鹿呼ばわりするとは、馬鹿はどっちだ。
「あ、池君。おはよう」
 この男は池というらしい。さっそく私のブラックリストに掲載せねば。
 「馬鹿」と言われた張本人、千波美ちゃんは少年の言葉をあまり気にしていないようであった。
 むしろ、池少年の言葉に反応したのは珠ちゃんの方だった。
「ちょっと、今なんて言った?」
 池少年は私のことを見上げた。心なしか睨んでいるように見えるのは気のせいか。
「こんな銅像に毎日毎日挨拶するなんて馬鹿じゃねえの?」
「こんな銅像って金次郎さんに失礼だよ」
 千波美ちゃんが頬を膨らました。
「別にかまわねえよ。どうせ、銅像だし。聞こえねえよ」
 十分聞こえているぞ、池少年よ。
 千波美ちゃんがますます頬を膨らませたのを見て、珠ちゃんが池少年の方に一歩踏み出した。
「それはともかく、ちなちゃんのこと馬鹿にするのやめてよ。挨拶するもしないも人の勝手じゃない」
「福島だって、いつも『よく毎日挨拶するな』って言ってるだろ」
 珠ちゃんの本名は福島珠紀という。
「そりゃ、そうだけど……。でも、池みたいに馬鹿にはしてないもの。なんであなたに因縁つけられなきゃいけないのよ」
 池少年は再び私を見上げた。先程のは気のせいではなかった。明らかに私のことを睨んでいる。
「俺、こいつ嫌い」
 今までろくに関わったこともない輩に嫌いといわれる覚えはないのだが。しかも、 珠ちゃんの質問の答えになっていないではないか。
「はぁ?」
 そう感じたのは珠ちゃんもだったらしい。
 珠ちゃんは池少年になにか言いたげだったが、そこにフグも顔負けするくらいのふくれ面をした千波美ちゃんが割って入った。
「金次郎さんはいい人だよ」
 池少年は拍子抜けた顔で千波美ちゃんを見つめた。
「どんな根拠があっていい人なんだよ」
「こ、根拠はないけど」
 それみろ、と言わんばかりに池少年は鼻をフフンと鳴らした。
「絶対、こいつはろくな奴じゃない。お前はだまされてるんだ」
 なんなのだ、私に対するその偏見は。人のことをよく知りもしないで、失礼極まりない。そちらこそ、 私がろくでもないという根拠を挙げてみろ。
 ふと自分の腕時計を見た池少年が「げっ」という顔をした。
「俺、部活の当番だから早く来たんだよ。お前らにかまってる暇なんてねえや。じゃあな」
 池少年は風の如くその場を去っていった。
「かまってやったのはどっちよ。ねえ、ちなちゃん」
 珠ちゃんが池少年の去った方から千波美ちゃんに視線を移すと、千波美ちゃんはまだ「金次郎さんはいい人なのに」 とつぶやいていた。

 梅雨がうっとうしく感じられるのは、しとしと降り続く雨だけではなくその湿気にある。
 私の前を通る生徒たちの会話から梅雨入りしたと知って約一週間。少し空がよどんでくると私の身体にも目には見えないくらいの 水滴がびっしりとつくようになった。
「梅雨って嫌い。朝苦労してセットした髪も、学校着くと広がってるし」
 校舎の方から聞こえてきた声は珠ちゃんのものであった。
「教科書は湿気を吸ってしわがつくし。ノートが書きにくいったらありゃしない」
「そうだけど、わたしは雨の音って好きだな」
「でも、ちなちゃんだって雨より晴れてる方が好きでしょ」
「うーん……」
 そこで千波美ちゃんと珠ちゃんは足を止めて、私を見上げた。
 千波美ちゃんはいつもと同じように、にっこりと微笑んでから頭を深く下げた。
「金次郎さん、さようなら」
 気をつけて帰るんだよ、と今日も気持ちだけでも届くように返事をする。
 千波美ちゃんが頭を上げて、再び歩き出そうとしたとき横から声がかかった。
「お前、まだ続けてんのかよ」
 この声は忘れようもない。千波美ちゃんを馬鹿呼ばわりした本物の馬鹿、池少年だ。
「池、テニス部は?」
 そう聞いた珠ちゃんは少しかまえていた。もしかしたら教室でも千波美ちゃんのことをからかっているのかもしれない。 私の分まで千波美ちゃんを守ってほしい。
「今日はねえよ」
 さわやかさからは遠くかけ離れた池少年がテニス部だったとは驚きである。言われてみれば、 時々ラケットのようなものを持ち歩いてはいた。
 池少年は千波美ちゃんたちにならって、私を見た。相変わらず目つきはきつい。
「細田ってさあ、なんで毎日こんな奴に挨拶なんかしてんの?」
「えーと、ね」
 そのまま千波美ちゃんは口籠もってしまう。少し首をかしげると、少し困ったような視線を私に向けた。
「日課なの。もう、くせになっちゃってるし」
「入学してたった三ヶ月なのにくせなのかよ?」
「ううん、ちがうの。中学まではマリア様だったの」
 私はマリア様になった覚えはない。
 池少年は眉をひそめた。
「ちなちゃん、マリア様って、どういうこと?」
 珠ちゃんもこの話は知らないらしい。
「あのね、わたし中学までカトリックの学校だったの。昇降口に行くまでにマリア様の像があって、毎日挨拶するのが決まりなの」
「それがこいつとどう関係あんだよ」
「像を見ると、なんとなくお辞儀しちゃうの」
――私はマリア様の代わりだったのか。
「じゃあ、この像が二宮金次郎じゃなくて忠犬ハチ公でもあいさつするってこと?」
「……多分」
 がっくり。
 がはははは、と池少年が大口を開けて笑った。実に腹立たしい少年なのだろう。それにしても比較対象が犬だなんて。 珠ちゃんもひどいものである。
「あっ」
 千波美ちゃんが空を見上げた。
 ぽつり、ぽつり。一つ一つ水滴が空から落ちてきた。大粒の雨はパシッパシッと地面をたたきつける。
「げっ」
「やだなあ。今日は降らないでほしかったのに」
 千波美ちゃんにならって、池少年と珠ちゃんも空を見上げる。落ちてくる水滴の量は確実に増していた。
 千波美ちゃんと珠ちゃんは鞄をあさると、折り畳み傘を取りだしてひらいた。二人の傘の上で雨は次々と跳ねて散らばる。
「なんだよ、お前ら傘持ってきてんのかよ」
 信じられない、と言わんばかりの表情なのは池少年。
「あたりまえよ。梅雨なんだから。池ってば傘持ってきてないの?」
「めんどくせえ。降るかどうかわかんねえのに持ってきてられるかよ」
 雨足はどんどん強くなっていく。
 千波美ちゃんがすっと傘を前に差し出した。
「池君、これ」
 池少年は自分の目の前に突き出された傘を見て目を見開いた。
「池君、自転車で来てるんでしょ。傘ないと風邪ひいちゃうから」
 池少年は手をぐいと押し出して、千波美ちゃんの方へ傘を戻した。
「バカ、風邪ひくのはお前の方だろ。自転車だし、俺は大丈夫だから」
 池少年が初めてまともなことを言っているのを聞いた。なんとかは風邪をひかないと言うから、 この少年は多少の雨なら当たっても大丈夫だろう。
 しかし、千波美ちゃんは頑固だった。
「ダメ」
「でもなあ……」
「ダメなものはダメ。遠いんだから。わたしは珠ちゃんに入れてもらうから」
 そう言って千波美ちゃんは池少年に無理矢理傘を握らせると、素早く珠ちゃんの傘の中に入った。
 いつもおっとりしている千波美ちゃんの素早い動きに、池少年と珠ちゃんはあっけにとられる。
「お前ら、途中から方向違わなかったっけ?」
「うん、いつもは。今日はみんなで駅前のパフェ食べにいくの」
「パフェえ?」
「何か文句あるの?」
「げげっ。よく甘いものなんか食ってられるな」
「池君、甘いもの好きじゃないの?」
「俺様は辛党なの。じゃ、これ借りてくぜ」
 甘いものの話も嫌だったのか、池少年は走って校門を出ていってしまった。
 珠ちゃんと千波美ちゃんが池少年の背中を見送っていると、新たに二人の女子生徒がやってきた。
「あっれえ? 今のって池じゃない。なんでちなちゃんの傘持ってんの」
 これから千波美ちゃんとパフェを一緒に食べに行く友達であろう。名前は知らないが、時々一緒にいるのを見かける。
「池君、傘忘れたんだって。だから貸したの」
「ええっ? いつの間にそんなに仲良くなってるの」
 傘で隠れて表情は見えないが、千波美ちゃんの友達その一は目を丸くしているに違いない。
「池っていつも男子としか喋らないじゃない。っていうか、女子には素っ気なさすぎるじゃない」
 千波美ちゃんはうーん、と首をかしげた。
「そうかな。でも、池君いい人だよ」
 瞬間、珠ちゃんの目が信じられない、と言わんばかりに半眼になった。
 私にもその気持ちがよくわかる。日頃、あんなひどい言い方ばかりされてそれでもいい人と言い切るとは。 なんて心の広い子なのだろう。
「ちょっと、照れ屋さんなだけだよ」
 付け加えられた千波美ちゃんの言葉に、私を含めた一同がそれはない、と笑ったのであった。

 数日経った放課後、池少年はいつもの憎しみこもった瞳で私を見上げていた。私が喋れたならば、絶対説教をしてやるのに。 こういうとき銅像というのは不便であり切ない。
「あ、池君」
 聞き慣れた心地よい声は、残念ながら私ではなく目の前の少年の名を呼んだ。
「おう、細田」
 池少年が軽く手を挙げると、千波美ちゃんは池少年の前で立ち止まった。珍しく一人きりである。
「池君も金次郎さんにあいさつしてたの?」
「そんなわけねえだろ、こんな奴に」
 即答。
 千波美ちゃんはいつものように首をかしげた。私を見て、池少年を見て、また私を見て。しばらくしてから、ぽつりと口を開いた。
「池君は、どうして金次郎さんのことが嫌いなの」
 よくぞ聞いてくれた千波美ちゃん。私もずっとそのことが気になっていた。ここまで嫌うには何か訳があるのだろうと。
 池少年がうっ、とつまったのは一瞬で、それから誰にも言うなよ、と小さな声でつぶやいたのだった。
「細田さ、俺の名前知ってる?」
「池君」
「バカ。下の名前だよ」
「……しらない。ごめんね」
 うつむいた千波美ちゃんを気にする風もなく、池少年は続ける。
「尊敬の尊に道徳の徳って書いてタカノリって読むの。完全な当て字だな」
 なるほど。生意気な池少年であるが立派な名前を付ける親ではないか。
「かっこいい名前だね」
「意味わかってるのか?」
 千波美ちゃんは少し考えてから、嬉しそうに答えた。
「あっ。同じだ」
 瞬間、池少年のただでさえ鋭い目つきがさらにきつくなった。瞳に宿るのはやはり憎しみの感情であった。
「そうだ。俺はこいつのせいで変なあだ名を付けられたんだよ」
 びしっ、と指をさした先にいるのは私。なんて偉そうな、ではなく、人に向かって指をさすとはなんて失礼な。
「小学生の時、先公が二宮金次郎について話してたんだよ。『彼は年をとってから尊徳と名乗っていました。池君の漢字と同じですね』 って」
 小学生とは安易なものである。その日から池少年のあだ名は金次郎となったらしい。
「どうせ他人の名前もらうなら、ましな名前がよかったぜ」
 珍しく同感だ。私ももっとましな人間に名前をもらわれたいものである。
「うーん、いい名前だと思うのにな。それに、一緒だからって嫌っちゃだめだよ」
 その通り。さすが千波美ちゃん。私と同じことを考えている。
 池少年は、足元に転がっていた石を蹴り飛ばした。
「キンジならともかくよ、キン○マって言われるんだぜ。やってらんねえよ」
 そのような言葉をこんなところで、しかも大きな声で発言するな。
 さすがの千波美ちゃんもうっ、とたじろぐ。
 小学生らしい発想といえばらしいが、かわいらしいですませられるものでもない。池少年が不憫に思えてくる。
 わずかに沈黙。
 それを破るかのように、池少年がいつもより大声で言う。
「そんなことはどうでもいいんだよ。それよか、これ」
 池少年は鞄の中から何かを取り出すと、千波美ちゃんの手にのせた。
 先日、千波美ちゃんが池少年に押しつけた傘と袋のようなもの。
「この前はサンキュな。それとこれ。たまには甘いもの以外も食えよ」
 袋のようなものは菓子のようだ。真っ赤なパッケージが中味の辛さを象徴している。
 袋に踊る「激辛」の文字に千波美ちゃんは、辛いのは、と渋い顔をした。
「せっかくだから、食ってみろよ」
 池少年の言葉に、乗り気のしない顔で袋をあける。千波美ちゃんはこれまた辛そうな赤いチップをおそるおそる口に運んだ。
「辛ぁい……」
 そう言って口をへの字に曲げた千波美ちゃんは、言葉とは裏腹に目元は心なしか嬉しそうであった。
 一方、私は見逃さなかった。池少年の口元もわずかに緩んでいるのを。
 もしかしたら、池少年はここで千波美ちゃんが来るのを待っていたのかもしれない。彼女が必ず私に挨拶して帰るから。
「池君は照れ屋さんなんだよ」
 ふいに先日言った千波美ちゃんの言葉が思い浮かんだ。
 今まで敵だと思っていた少年が少し微笑ましく思えたのであった。

 今年の梅雨はいつになく強い雨の降る日が多かった。よって、千波美ちゃんが私の前で過ごす時間も少なくなってしまった。
 千波美ちゃんは相変わらず珠ちゃんといることが多い。池少年は相変わらず私を睨み上げる。千波美ちゃんと池少年が 言葉を交わしている光景も何度か見受けられた。
 その日は珍しく雨が降っていなかった。とはいえ、空を重たく埋め尽くすのは分厚い灰色の雲である。
 今日は千波美ちゃんと珠ちゃんの漫才がゆっくり見られるかと期待していたが、先に私の元へ来たのは池少年であった。
 彼は私の目の前まで来るといつものように、私を睨み上げた。それから、落ち着かない様子で私の前を行ったりきたりしていた。
 これはもしや。
 私が一つの可能性にたどり着いた時、校舎の方から池少年を呼ぶ声が聞こえた。
 現れたのは彼のクラスメートとおぼしき二人組であった。体育の時間に池少年と一緒にいることが多く、 クラスでは仲がよい方だと思われる。
「何してんだよ」
 少年の片破れAが言うと、池少年は珍しく歯切れ悪く「別に」と小声で答えた。
 それを見た二人の少年は顔を見合わせてにんまりとした。
「細田待ってんだろ」
「ちっ、ちがっ、んなわけねえだろ」
 少年Bの言葉に池少年は明らかに狼狽していた。視線がせわしなく動いて逃げ腰になっている。
「ビンゴかよ」
「違う」
「知ってんだぜ。お前他の女子とはろくに喋らないくせに、よく細田にちょっかい出してるの」
 いつか千波美ちゃんの友達も似たようなことを言っていた。やっぱり……。
 隠す必要はないんだぜ、と少年Aがぽんぽんと池少年の肩を叩いた。池少年は二人と目を合わそうとせず、 仏頂面で校庭の方を見ていた。
 それをいいことに二人は週刊誌の記者のごとく、いつ告るの? 惹かれたポイントは?と質問を浴びせかけていた。
 池少年は適当にごまかしてその場を去るつもりだったのだろうが、二人組は池少年の脇を固められてしまっている。 最初は黙って聞いていた池少年であったが、言いたい放題の二人に堪忍袋の緒が切れた。
「違うって言ってんだろ!」
 池少年が二人を睨んだ。私を見る時のようなきつい目つきにクラスメート達はたじろぐ。
「別に、からかってるわけじゃ……」
「うるせえな。違うものは違うんだよ。誰があんなボケ女好きになるかっての」
 い、池少年なんてことを。私が今も自由に動かせる身体を持っていたならば、一発殴ってやったところだ。
 しかし、私は銅像。私は動くことも説教することもできず、当然ながら私の気持ちが伝わっていない池少年は続けた。
「銅像に真剣に話しかけてるんだぜ。あいつおかしいんじゃ……」
 急にしぼんだ声に、二人組は池少年の見ている方、つまり校舎の方を振り返った。途端、ぎょっとした表情をする。
 つかつかと歩いてきたのは千波美ちゃんであった。顔がこわばっている。
 千波美ちゃんはクラスメート二人が目に入っていないかのように、池少年の前にまっすぐやってきた。
「池君のばかっ」
 それだけ言うと、千波美ちゃんは校門の方へ駆けていってしまった。私に挨拶しなかったのは、入学以来初めての出来事だった。
「ちょ、ちょっと待てよ」
 と池少年は千波美ちゃんの去った方を見たが、追いかけることはしなかった。
 クラスメート達は気まずそうに視線を交わすと、「タイミング悪かったな。俺たち用事あるから」 ととんずらをこいて逃げていってしまった。
 何と薄情な。
「くそっ」
 一人取り残された池少年は私の土台にけりを入れた。普段ならば罵っていたはずだが、あまりに池少年が哀れで何も言えなかった。
 追い打ちをかけるように、空からぽつりぽつりと雨が降ってきた。

 梅雨が明ければ、夏が来る。  ぎらぎらとした太陽が日本を焼き付ける。銅像である私には眩しい上に熱くてありがたくない季節である。一方、 学期末テストを終えた学生達には夏休みという楽しいイベントが控える楽しい時期である。
 しかしながら中には、梅雨気分をずるずると引きずっている者もいたりする。
 千波美ちゃんと池少年である。
 あれからも千波美ちゃんは毎日私に挨拶してくれるが、なんとなく元気がない。珠ちゃんは事情を聞いているようで黙って 千波美ちゃんを見守っている。池少年は私の前で立ち止まることがなくなり、ため息をつく回数が増えていた。 時々二人が鉢合わせることもあったが、目をそらして二人ともよそよそしい態度をとっていた。
 このまま夏休みに突入してしまうのではないかと不安な気持ちのまま終業式の日を迎えてしまった。
「金次郎さん、さようなら」
 千波美ちゃんが現れたのは、他の生徒がほとんど帰ってしまってからであった。
「明日から夏休みなのでしばらく会えません」
 千波美ちゃんはいつも通りの挨拶をしてくれた。今日は珠ちゃんはいない。
「そっか……会えないんだ」
 私を見上げたまま、千波美ちゃんはつぶやいた。決して私から目を離そうとしない。だが、 彼女の瞳の奥に映っているのは私ではないのは明らかであった。
 ようやく千波美ちゃんが私から視線を外し、校舎の方を見て固まった。二、三歩後ずさりして、 校舎に背を向けると彼女にしては早足でその場を去ろうとした。
「おい、待てよ」
 千波美ちゃんが見たとおぼしき人物の声がした。
 千波美ちゃんは歩みをとめるとおそるおそる振り返った。顔をこわばらせ、瞬きを忘れたかのように声の主を見ていた。
「そんなに怯えるなよ」
 少し困ったような口調で池少年は千波美ちゃんの目の前で立ち止まった。
「あのさ、この前……っても、結構前だけど、悪かった」
 千波美ちゃんは硬い表情のままふるふると首を横に振る。
「あれはさ、あのさ、売り言葉に買い言葉っていうか、なんていうか」
 彼らしくない歯切れの悪さだ。なかなか見られない池少年の姿に違いない。
 千波美ちゃんは黙って目の前の少年を見つめている。その視線に戸惑いの隠せない池少年の目は宙をさまよっていた。
「本当っ、俺が悪うございました。全部俺が悪かったと思います。悪かったに違いない。悪かっただろう、悪くなければ……」
 完全に混乱している。しかも、中途半端な土下座っぽい格好が無様すぎる。
「もう、怒ってない」
 そう言う千波美ちゃんの声はいつもの彼女からは想像できないくらいそっけなかった。
 地面にへばりついたまま、池少年はキッと千波美ちゃんを見上げる。
「嘘だ」
「……嘘じゃない」
「絶対嘘だ。今間があった。お前まだ怒ってるだろ。こっちがすんげー悩んだあげく謝ろうって決めたのに」
 ああ、これは最近の若者に特有な逆ギレというものだな。
「ってかな、あの時だってあんなこと言うつもりはなかったんだ。 いきなりあんなこと言われて慌てたっていうか図星だったっていうか……」
「図星?」
 圧倒されていた千波美ちゃんが、首をかしげる。
「ずっ……ずっ、図星なんかどうでもいいんだよ。普通に考えてだな。気まずい関係のまま夏休み迎えるのもなんか後味悪いだろ。 せっかく話す機会が増えてきたのに……こ、これはクラスメートとしてだなっ」
 ふと我に返った池少年の顔が湯気を吹き出さんばかりに真っ赤になった。そのまま頭を抱え込む。見事な百面相だ。
 千波美ちゃんがかがんで池少年と視線を合わせる。
「大丈夫?」
「ああっ、もうっ。なんかムカツクな!」
 池少年はきょろきょろと辺りを見回し、周りに誰もいないのを確認すると千波美ちゃんの耳元で何かを囁いた。
 私には聞こえなかったが、千波美ちゃんが頬を赤く染めて嬉しそうに頷いたのを見て内容は容易に想像できた。
「じゃあ、帰ろうぜ」
 池少年は立ち上がると、照れを隠すようにすたすたと校門へ歩いていく。それを千波美ちゃんが追いかけようとして、 立ち止まった。
「あっ」
 千波美ちゃんはきびすを返すとこちらへ戻ってきた。
「九月からまたよろしくお願いしますね」
 一言だけ言うと、すぐに池少年の元へ戻っていってしまった。
「お前、やっぱ馬鹿か?」
 池少年に小突かれた千波美ちゃんはふふっと笑ったのであった。


 それから二人がどうなったかって? 
 私はもちろんある程度のことは知っているのだが、それはまた別の機会に。



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 ボケツッコミがいつもと男女逆で、人間以外のキャラを書くのは楽しかったです。
 機会があればもう少し改稿したいです。


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