ョートショート

椅子を運ぶ青年

 毎朝同じ時間に家を出ていると、すれ違う人の顔を覚えてしまうものである。全員を認識出来るわけではないから、 そのような人々はどこかしら自分の記憶に残りやすい特徴を持っているのだろう。
 しかし、中には強烈すぎて脳内に刻み込まれるような人物もいる。
 私の場合、それは椅子を運ぶ青年であった。 彼とは駅へ向かう途中で時々すれ違う。 その際、必ず成人男性が両手で抱え込まないと運べないような大きな椅子を持っていた。 木製の枠に背もたれとクッションには刺繍のされた布地が張ってあり、肘掛け部分もしっかりしている。書斎用のものに違いない。
 彼は何故そのようなものを持って歩いているのだろうか。
 その時から私は彼のことを注意深く観察するようになった。
 まず、考えたのは自分の学校、もしくは職場での居心地をよくするためというものだ。 短い休憩時間を快適に過ごすべく枕やお気に入りのお茶を持ち込むというのはよくあることだ。だが、 それならば出先に置きっぱなしにしてしまえばよい。毎回、同じ椅子を持っているということはその都度持ち帰っているに違いない。
 必ず椅子を持ち帰らなければいけない状況で考えられるのは、公園でのスケッチや写真撮影だった。しかし、 それならば折りたたみ式の椅子を利用すればよい。それ以前に彼は椅子以外に何も持っている形跡がなかった。 せいぜい財布と携帯、家の鍵くらいであろう。
 彼が椅子を運ぶ時の表情は決して楽そうではない。世の中にはもっと軽い椅子はいくらでもあるわけだから、 きっとあの椅子でなければいけない理由があるのだ。
 彼が心底尊敬していた家具屋の形見、新しいスタイルの筋トレ等々、半ばヤケクソになってきた頃あることに気づいた。
 私と彼がすれ違うのはほぼ隔週の月曜日なのだ。
 彼が定期的にこの道を通るならば、話は早い。気のひける部分はあるが、彼の後を追いかけてみようと思った。
 チャンスはほどなくやってきた。シフトの関係で月曜日に休みを取ることができたのだ。
 普段より少し早めに家を出て彼を待ち伏せした。ほどなくやってきた彼は、やはり椅子を抱えていた。 私は怪しまれない程度に距離を置いてついていった。
 青年はバス停へ来ると、待っている人用のベンチの横に椅子を置いた。椅子を持ってバスに乗るのだろうか。 確かにここを通るバスは市役所や病院などのある市街地を通って駅へ行くので便利だ。一方、 あんな大きなものを持ってバスに乗られたら迷惑であろう。
 他にバスを待っている人々を見てみたが、特に彼を気にするそぶりは見せていなかった。つまり、いつものことなのだ。 そして、特に煙たがってもいないらしい。ますます謎である。
 私の求めていた答えは次の瞬間やってきた。
 杖をついた老婦人がバス停へやってくると、青年の持ってきた椅子へ座ったのである。
 青年と婦人は何かを喋っていたようだが、青年が指を差した先にバスが見えると、老婦人はゆっくり立ち上がった。肘掛けに手をついて。
 老婦人がすでに曲がった背中をさらに折り曲げて青年に声を掛けてバスに乗った。青年は軽く会釈しする。
 そういうことだったのだ。
 足腰の悪い高齢者にとってバス停で待つことは決して楽ではない。 備え付けのベンチは腰掛けの位置が低く手すりもないため座るのも立ち上がるのも大変である。 老婦人がバスを待つ時間を少しでも快適にするもの、それが木製の椅子だった。同じ曜日にバスに乗るということは病院にでも行くのだろう。
 二人の関係はわからない。お辞儀の仕方から血縁関係にはないだろう。
 思わぬ結果に呆然と立ちつくしていたら、再び椅子を抱えて帰ろうとしている青年と目が合ってしまった。 向こうも月二回すれ違う私の顔を覚えていたのか不思議そうな表情を浮かべていた。
 困った私は何となくお疲れ様です、と会釈していた。彼は椅子を持ったままにこりとすると、そのまま去っていったのであった。   


        
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 私が実際に駅ですれ違ったのは木製のベンチを持った学生風の女の子。

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