妻が家出をしてしまった。
彼の手元に残ったのは「もう耐えられません」と殴り書きされた紙切れ一枚。
何が悪かったのだろう。
彼は真剣に考えた。
きっかけは些細なことであった、と彼は信じている。
先日のパーティーでちょっぴり隣国の姫と二人きりで話していただけだ。見た目も中味も可愛らしい女性だとは思ったが、
下心などなかった。
という彼の訴えを妻は聞き入れようとしなかった。
「初対面の女性に接吻をするような貴方ですわ。いつも女性のことをそのような目で見ているのでしょう」
それが彼女の口癖であった。
実際これは事実なのであるが、あの時はあの時なりの事情があったのだ。
しかし、妻は良くも悪くも純情であった。
二人は出会って間もなくスピード婚をしたから、当時はばたついていて目の前にある物事を片づけるので精一杯だった。
結婚生活にも慣れてきて、周りを見回す余裕ができた時、妻には彼のしたことをゆっくり考える時間が与えられてしまった。
毒にあおられて倒れてしまった姫。それを愛の接吻で目覚めさせる王子。二人は永遠の愛を誓い、めでたしめでたし。
一見誰もが憧れるロマンスに聞こえるが、よくよく考えてみれば王子は単なる変態なのではないか。考えずとも明らかに変態だろう。
継母にいじめられながらも清純に育った姫には刺激が強すぎる出来事だったらしい。
以来、その件に関しては妻に恨まれている。何かあるとその話を出されるので彼も辟易していた。
おかげで、世継ぎ云々の前にろくに妻に振れられていない。
故に昨夜ついに言ってしまった。
「君は潔癖すぎるんじゃないか。いくら世界で一番美しいといわれていても、そんなんじゃ男は寄ってこないよ。わたしだって男だし、
君はわたしを生殺しにしているんだ」
それに逆ギレした妻は日頃の鬱憤を彼にぶちまけると、置き手紙を残して家を出て行ってしまった。
彼は窓の外を見やった。
空は彼の憂鬱な気持ちを嘲笑うかのような青空が広がっている。眼下には一度迷い込んだら、自力では出られそうもない森。
妻と出会った場所。
彼は重い腰を上げて部屋を出た。
「姫は貴方に会いたくないと言っています」
ぴしゃり、と足元でドアが閉まる。
やはりここにいたか。
身寄りのない彼女が唯一すがれる所といえば、彼女のもう一つの命の恩人である小人達の家であった。妻に心酔している彼らは、
いつでも妻の味方である。そして、小人達から彼女を奪ってしまった彼を少なからず恨んでいる。
彼は負けじとドアをノックした。
「別に会わなくてもいい。ドア越しでいいから喋らせてくれ」
ぎぎーっ、と嫌な音を立ててドアがほんの少し開いた。
「姫に何をしたのですか。変態王子」
妻は全部小人達に喋ってしまったのだろうか。背中を一筋の汗が伝った。
「浮気は文化だと思ってらっしゃるのではありませんか」
誰だ、そんなことを言ったのは。反面、本筋のところが伝わっていないと知り安堵する。
それからしばらく小人達と交渉したが、その日の話し合いはろくに進展せず彼は一人で城に戻ることになった。
妻が家出をしたと知った彼の母即ち女王は
「早く世継ぎを作らないと、飽きられて別れられるわよ」
などと笑えない事を言っていた。王様までも、
「最初の世継ぎは男の子がいいな」
と言うものだから彼はますます鬱になってしまう。とても、夫婦ながらお友達な関係だということを両親に言うことはできない。
いや、口が裂けても言うものか。
暗雲が心の隙間までも埋めそうな気持ちを抱えたまま、彼は翌日も小人の家へ向かった。
小人達を仲介しても時間の無駄だ。
そう思った彼は、小人達が働きに出かけている時間を狙って行った。ドアをノックしても返事はなかった。小人達がいない証拠だ。
ドアノブをゆっくりまわすと簡単にドアは開いた。ドアをきしませないように開けて身体をよじりながら小さな入り口から家の中
に入っていく。
妻の居場所はだいたい想像できていた。
音を立てないように進んでいたが、それでも人の気配を消せなかったのだろう。妻がいるとおぼしき部屋のドアがわずかに開く。
「誰?」
彼と妻の目が合った瞬間、彼女は家を壊さんばかりの勢いでドアを閉めた。
「まだ怒っているのかい」
「怒ってはいけないのですか」
さらに反論しようと口を開きかけたが、このままでは埒があかない。
「わたしは正直貴女が何を考えているかわからない時がある」
「……」
「正直なところを言えば、初対面の貴女に接吻をしたのはその美しさに心を奪われたのが事実であるし否定するつもりもない。
それで、貴女を深く傷つけてしまったのは反省している。しかし、わたしも白馬の王子であると同時に男なのだ」
何を言っているのだろう。自問して彼は口をつぐんだ。これでは小人達の言うように単なる変態王子ではないか。
「わたくしは単なるお荷物だと思っていました」
ドア越しに妻の声が聞こえた。
「貴方はわたくしを目覚めさせた責任でわたくしを妻にしたのではないですか。本当は別の姫君と結婚したかったのではないですか。
だから、結婚してからわたくしに接吻の一つもしてくれないのではなかったのですか」
声がわずかに震えている。泣いているのだろうか。
「何を仰るのです。貴女の方こそ……」
「わたくしは意地っ張りなのですわ。そして、自分に自信がないのです。
貴方が他の国の姫を見つめていると心配で仕方がないのです」
彼はドアノブに手をかけるとゆっくりドアを開いた。姫はベッドに腰をかけている。
近づくと目は潤んでいたが、泣いてはいなかった。
そっと妻の頬に振れる。
「わたしはいつでも貴女に振れたいと思っています」
彼の手に細い妻の手が重ねられる。温かい、そう妻はつぶやいた。
はかなく微笑む妻は今でも世界一美しい姫といえよう。
優しく妻に口付ける。久しぶりに振れたやわらかい感触に鼓動が高鳴る。初めて、妻に会った時を思い出す。
「これからはもう少し我慢するのをやめます」
「ほどほどにしてくださいね」
妻はくすくす笑ったのであった。
6月頃対戦「お題バトル」参加作品。テーマは「接吻」でお題は「別れ」「誓い」「鼓動」「恨み」「すがる」。
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