聞いてはいたんだ。
うん、聞いてはいたんだ。
噂だけど。
まさか事実だと思わなかっただけで。いや、事実と思いたくなかっただけかもしれない。ってか、事実だったらイヤじゃん。いえ、
それが事実なのですけれども。
でもね。
「ふーん」
はないと思うのよ。
仮にも初対面よ? 出会い頭よ? せめて初めましてとか自己紹介とかあってもいいじゃない。
人を舐め回すように見たあげくの台詞がそれってのはね、どうよ。
そこで慈悲深い微笑みスマッシュ返しで挨拶した自分をほめてやりたい。ほめなきゃやってられない。
大人の態度を貫き通すのよ、私。
「お兄ちゃーん、桃華これ食べたぁい」
砂糖をかけすぎじゃないかというくらい甘い声で言った少女は隣に座る青年にもたれかかってメニューを指した。
青年の方は困った表情を見せつつも、まんざらでもない様子で「他には?」とメニューを確認する。
何なのよ、この光景は。
知らず知らずのうちに膝の上に置いた拳に力が入る。
青年は目の前に座る私の方に顔を向けた。
「沙夜は飲み物以外に何かいる?」
「結構」
あくまでも、にっこりと。
例え拳に太い血管が浮いていても、それを感づかせてはいけない。
注文したものがそろったところで、自らのことを桃華と呼ぶ少女が、青年の腕にからみついた。
「お兄ちゃん、この人のどこがいいの」
あらかじめ予想していた質問だった。
青年は桃華と私を交互に見やる。青年が口を開こうとした瞬間、すかさず桃華が言った。
「お兄ちゃん、どうかしちゃったの。だって、この人別に美人じゃないし、スタイルも特別よくないし、
頭もそんなに良さそうじゃないし。まだ、今までの彼女の方が……」
「桃華」
青年がたしなめると、桃華は唇をとがらせてケーキにフォークを突き刺した。
本当はそれの百倍の強さで、私の心を突き刺したいんでしょうね。私をねめつけてくる視線がそう言っている。
これも予想通りの展開。
怒ってはいけない。頑張れ私。偉いぞ私。
そう思いながらも、こっそりため息をついてしまった。
青年の名前は平瀬俊樹。
ルックスはまあまあ。文句なしの美青年というわけではないが、手に届きそうなかっこよさという意味ではポイントが高い。
眼鏡をかけているというのもポイントアップに貢献している。性格は温厚で真面目。頼まれると断れないというところに難はあるが、
言い方を変えればそれだけ優しということで。
ところが、彼には一つ問題があった。
平瀬桃華。中学二年生、女。
俊樹の妹君である。
桃華は極度のブラコンであった。
俊樹とつき合うからには、乗り越えなければいけない問題であり、最大の壁といえよう。
意を決して、本日ご対面した訳だが、向こうの態度があれだった。
結局。
壁を乗り越えようにも、壁に手の届く範囲までたどり着けず。
桃華は最初から最後まで俊樹にべったりで、俊樹はそんな妹を怒ることなく時々私にすがりつくような視線を送ってくるだけで。
私はどちらともほとんど会話をすることもなく喫茶店を出たのであった。
「ごめん」
別れ際、彼はそう言ったのだけど、全然心がこもってるように聞こえなかった。
あやまらなくていい。その代わりもっとしっかりしてほしい。
妹に引きずられる形で俊樹の姿が小さくなっていく。
「何をしにきたのかしら」
思わず本心がこぼれてしまった。
なんだかやるせない。
「げっ」
それが目に入った瞬間、とても乙女――実際は乙女と言うには抵抗のある年齢なのだが――とは思えぬ声を出してしまった。
相手の方も声を出したかは定かではないものの、嫌なものを見てしまったという表情をしていた。
ああ、なぜこんな所に平瀬桃華。
学校帰りなのだろう。制服に身を包んでいる。桃華は半ば目をつり上げてこちらへ歩いてきていた。
上品なブレザーに似合う清楚な顔立ちが台無しだ。
できるならば今会いたくない人ナンバーワンですよ。
先日会った時の事が脳裏に鮮やかによみがえる。
俊樹に当たり前のように甘える桃華。私の心を粉々に砕かんばかりの刺々しい言葉を吐く桃華。私のことを見ようとしない桃華。
彼女のことを考えるだけで、肩の荷が重くのしかかってくる。
などと憂鬱になっているうちに、桃華との距離は近くなっていく。車線もない狭い道路ではあるが、
桃華は私とは反対の道の端を歩いていた。完全無視する気なのであろう。
そりゃ、私だって見なかったことにしたい。関わりたくない。こんな生意気なクソガキ、もとい平瀬桃華様。
しかし、私は大学生で立派な大人。中学生のように意地を張ってはいられない。
ファミレスでバイトをしていた時を思い起こし、格別の大人スマイルで桃華へ向かって歩き出した。
「こんにちは、桃華ちゃん」
桃華、無視。
「あら、ひどいわね。無視するなんて」
桃華、引き続き無視。
ならば、こっちも力づくでいくしかない。
桃華の腕をつかむ。桃華は身じろぎしたが、逃れられない。これでも高校時代はバドミントンをやっていた。
利き腕ならば力に自信がある。
「挨拶くらいしたら?」
桃華はキッと私を睨みあげた。身長はわずかに私の方が高い程度だが、こちらはヒールを履いている。
「なんですか」
とても俊樹に甘えていた子とは思えないぶっきらぼうさだった。声もこの前より二トーンくらい低い。
「ちょっと、桃華ちゃんと話したいなと思って」
桃華は一瞬動きを止めた。しばらく考えてから、全身の力を抜き、あっさり抵抗するのをやめた。
「いいですよ、こっちも言いたいことありますし」
そこで向かったは近くの高台にある公園。
私達は公園の一角のベンチに座った。ベンチの端と端というあたりが非常にわかりやすい状況になっている。
こっちの空気を少しは読めよ、という元気っぷりでお子様ははしゃいでいる。
手ぶらもなんなので、自動販売機で飲み物を買った。私は緑茶。桃華は炭酸オレンジジュース。
こういう所は中学生らしいセレクトだ。相手が桃華でなければ微笑ましく思えただろう。
プルトップを開けて緑茶を口に含む。喉を通る苦みがなんだか今の心境に似ている。一方、桃華は缶を両手で握りしめたまま、
口にしようとしない。
気まずい雰囲気が漂う中、先に口を開いたのは桃華だった。
「ブラコンやめろって言いたいんでしょ」
「あら、わかってるじゃない」
「でも、無理です」
即答。
「少なくとも、あなたに言われたくありません。あなたはお兄ちゃんにふさわしくないと思います」
今日も言われるとは思ってたけど、改めて言われるとグサッとくる。自覚してるだけに余計。
しかし、相手は桃華様。丁重に扱わなければいけない。
「どうしてかしら」
「この前も言った通りです。お兄ちゃんには美人で頭のいい人が似合うんです」
「それは表向き。誰が彼女になっても、桃華ちゃんは気に入らないんでしょ」
桃華は口をへの字に曲げる。図星。
「だって、今までの彼女もそうやって別れさせたんじゃないの」
「お兄ちゃんが私のもの以外になるのがイヤなのは事実です。
でも今までの彼女がみんなお兄ちゃんにふさわしくなかったのも事実です」
詳しくは知らない。ただ、周りから俊樹の過去の彼女が「美人で頭のいい人」という条件をクリアしているとは聞いている。
桃華は俊樹を誰かに取られるのが嫌なだけなのだ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。俊樹が迷惑だわ」
「あなたは……あなたはすっごく性格悪いですね。お兄ちゃんが今までつき合ってきた人たちの方がまだましです。
いいえ、全然いいです」
そりゃ、性格悪いだろう。桃華のことをここまで言う人間なんて今までいなかったのだから。
私だって、自分の価値くらい知っている。
桃華は息を継ぐのも忘れたかのようにまくし立てた。
「お兄ちゃんが迷惑だなんて。あなたの方がお兄ちゃんに迷惑なんです。
あなたなんか本当はお兄ちゃんに好かれてないんじゃないですか」
私はゆっくり立ち上がった。桃華の前にくると、そのまま持っていた缶を逆さまにする。
大人の私、さようなら。
じょぼっじょぼっと不規則なリズムに合わせて黄色く染まった液体が桃華に降り注いだ。
「何するんですかっ。あなた、本当最低ですね」
「頭冷やしたら?」
「……」
「ブラコンも結構だけど、人には言っていいことといって悪いことがあるのよ」
もう、どうでもいい。私は喜んで悪魔になろう。
「私はさっき俊樹が迷惑よ、って言ったわね」
「それが何か?」
一つ深呼吸。私も冷静になろう。できる限り落ち着いて喋ろう。
「兄離れをさせたいって先に言ったのは俊樹の方よ」
「頼みがあるんだ」
そう言われたのは桃華と初めて会うちょうど一週間前だったか。
こっちが頼み事をすることはあっても、俊樹の方から頼まれるのは初めてだった。
「私にできることだったら何でもするけど」
よほど苦悩しているのだろう。そう思って答えた気がする。
「実は、妹のことなんだけど」
瞬間、嫌な予感がした。
彼の妹がブラコンであることは、俊樹の中学時代からのの友達より聞いていた。
しかし、できることならすると言った手前、後戻りはできない。なんせ、俊樹が初めて私に頼ってくれているのだから。
ここでポイントを稼がねばという下心があったのも否定はしない。
「兄離れさせてほしいんだ」
俊樹は真顔で言った。
目が点になった。
多分、いや絶対、いいことだと思う。妹君のためにも、俊樹のためにも、私のためにも。
でもね、それって兄である俊樹の役目でしょう。私がやることじゃない。
「俺じゃ無理。というか、できてたらとっくにやってる」
そりゃそうだ。
「でも、なんで今更そんなこと考えたの?」
「別に今考えた訳じゃない。昔から桃華は俺に甘えすぎだとは思ってたし。ただ、機会を逃してただけで」
ホントは俊樹も兄離れされると寂しいんじゃないの、と冗談でも言える空気ではなかった。
「桃華は喘息持っててさ。幼稚園とか学校よく休んでて。友達と遊ぶより家で俺と過ごすことの方が多かったから俺にべったり
するようになっちゃったんだろうな」
俊樹は昔を懐かしむように、遠くを見ていた。
「俺になついてくれるのは嬉しいけどさ、桃華もいい加減中学生だし。
今は発作もおきなくなってるからもっと自分の世界を持ってほしいと思ってるんだ」
兄なりに妹を心配してるのね。
やっぱり私がやることじゃないという気持ちは拭えないけど、私がやらなかったら次の彼女様が身代わりになるだけで。
ってか、俊樹に次の彼女様できてほしくないし。
泣く泣く私は俊樹の頼み事を引き受けたのであった。
桃華は呆然と公園ではしゃぐお子様達を見ていた。目は見開かれたままで、焦点が合っていない。
缶を持つ手がかすかに震えていた。お茶でびしょぬれになった身体を拭くことすら忘れている。
「嘘……」
「桃華ちゃんがお兄ちゃん好きな気持ちはわかるけどね」
俊樹が好きで好きでたまらない気持ちはよくわかる。
「あなたになんか……」
わかりません、と最後まで言葉になっていなかった。変わりに頬が幾筋もの涙で光った。
それだけ桃華には衝撃的な話だったのだろう。そして、いつかはぶつかる話題だとわかっていたのかもしれない。
泣かせるつもりはなかったんだけどな。
歯を食いしばりながら顔を真っ赤にして、黙って涙を流す桃華を見ていると思わず抱きしめたくなる。
泣かせた原因は自分にあることを棚に上げて。
悪役になろうと覚悟はしていた。しかし、目の前で泣かれるとこっちもフォローしない訳にはいかなくなる。
「桃華ちゃん幸せなのよ。確かにベッタリはできないだろうけどさ。言い方を変えればそれだけ俊樹も桃華ちゃんの
将来を心配してるってことだし」
桃華は俯いて缶を握る手にぎゅっと力を入れたり、緩めたりしていた。
しばしの間、沈黙。
何に興奮しているのか絶叫するお子様の声が耳に障る。
「やっぱり、嘘です」
子供の声に紛れつつ、はっきりとした口調で桃華は言った。
いつの間にか最初の彼女に戻っていた。
力のこもった瞳で私を見上げてくる。もう泣いてはいなかった。その視線をしっかり受け止めて、桃華を見下ろす。
「私が嘘ついてどうするのよ」
「邪魔者を排除できるじゃないですか」
邪魔者、ね。
「私が嘘ついても何の得にもならないのよ」
「どういうことですか」
どういうことって、言葉通りなんだけどな。
もう限界だ。
「私は俊樹の彼女じゃないもの」
本当は最後まで言いたくなかったけど。
桃華の大きな瞳がわずかに揺らいだ。焦点を私に合わせたまま瞬きも忘れていた。
そりゃ、びっくりでしょうよ。
「俊樹はさ、あなたと私を会わせる時に私のことを彼女だって言った?」
桃華が少し首をかしげる。経過を思い出しているのだろう。しばらくして、首を横に振った。
「会わせたい人がいるから、って」
やっぱり。
俊樹は嘘がつけないから。
「私はあくまでも俊樹の『仲のよい友達』なの。ずーっと片思い」
高校の時に一度告白した。でも、駄目だった。
それっきり「一番の女友達」。
なんて残酷な言葉なんだろう。
俊樹は優しい。俊樹はずるい。
一番のやっかい事を私に頼むのだから。自分は手を汚さず。彼女にも手を汚させず。私に憎まれ役をやらせるのだ。
信頼されるのは嬉しい。同時にむなしい。
桃華の言葉を聞いているだけで私は一生彼女になれないのかもしれないとすら思った。俊樹の元カノと私じゃ全然タイプが違う。
不戦敗もいいところだ。
桃華の気持ちはよくわかる。悲しいくらいとっても。
「すぐに兄離れしろとは言わないわ。だって、無理でしょ。でも、兄離れをすることは考えたら」
それは自分にも向けた言葉。
いい加減、あきらめろ。本当に俊樹に幸せになってほしいのなら。
私はバッグからタオルと鏡を取り出して桃華に手渡す。
「ほら、拭いて。ひどい顔してるわよ。女の子でしょ」
「誰のせいだと思ってるんですか。……でも、ありがとうございます」
初めて素直に答えた桃華は少しだけ微笑んでいた。
桃華は軽く身支度を調えると、手に持っていた缶を振り出した。そして、プルトップを開ける。私へ向けて。
プシュッと空気のはじける音がして、もの凄い勢いで冷たいものが私に飛んできた。
「一回は一回です」
桃華は笑っていた。声をあげて。
生意気な。
私はタオルを桃華からひったくると、顔を拭いた。炭酸だけにベトベトする。これじゃあ、十倍じゃない。
桃華がふともらした。
「お互い、幸せで不幸ですね」
同感だわ。悔しいけど。
俊樹の側にいられるのは幸せ。でも、想いが叶うことはないから不幸。
そう、幸せ不幸同盟。
「お題バトル」参加作品。テーマは「兄」でお題は「役目」「身代わり」「苦悩」「鏡」制限時間1時間のはずが、実質
2時間。
5/27対戦。大幅加筆修正してあります。
今回の参加者→
JINRO様、
SHASHA様、
ゆーき様、
メェ様、
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