近頃、腹をさするのが癖になっている。
理由はわかっている。
「お父さん、さいきんおなか出てるよ」
風呂あがりに言われてしまった。七歳の娘、咲紀(さき)に。
大磯克之は現在三十五歳。平凡な会社員で特別運動をしているわけではないから、
腹がたるんでくるのはしかたのないことだ。しかし、娘の一言は強烈らしく、
無意識に腹をさすっている自分がいる。加えて腹がたるんできているからといって運動をするつもりもなく
、風呂あがりのビールをやめられない自分も。
(二十年後はあのおじさんのようになるんだろうなあ)
体重計にのるたびに克之は思うのである。
あのおじさんとは大磯家で飼っている犬、タロの散歩で通る公園にいる人のことだ。
五十代半ばでベルトの上にのってしまう典型的ビール腹。やや白髪が優勢な後頭部は頭皮が見えつつある。
彼は最近公園に現れた。そして公園で一番大きい桜の木を見上げてはため息をついていた。
その日も克之は娘と共にタロの散歩に出かけた。
「じゃあ、タロとあそんでくるね」
そう言って咲紀は他のブリーダーのもとへ駆けていった。ブリーダー達は顔なじみであるし、
大人が多いから安心して遊ばせることができる。
克之は娘とタロがブリーダー仲間に合流するのと見届けると、例の男がいる桜の木へ向かった。
男はいつものように桜の木を見上げていた。
克之は少し離れたところで桜の木をまじまじと見つめてみた。
幹は大人の男性ならば簡単に両手をまわすことができるだろう。枝はのびたい放題にのびていて、
お世辞にも枝ぶりが立派だとは言えない。花が満開ならばともかく、今はつぼみがようやくふくらみ桜色が
顔をのぞかせはじめたという頃だ。
(ため息をつくほどのことではないな)
克之は男に視線をやった。ちょうど彼の口からため息がもれたところだった。
このため息は桜に感心しているというより……。
そこで男と目が合った。
「もうじき桜が咲きますね」
慌てて目をそらそうとしたところ、男が克之へ近づいてきた。
「いつも娘さんといらっしゃっていますよね。娘さんはおいくつなんですか?」
人のよさそうな顔によく似合う穏やかな声だった。
「七歳でこの春から小学校二年生です」
「そうですか……」
男は再び桜を見上げてため息をついた。
やはり桜に感銘を受けているというよりは重苦しいものを含んでいた。
「私にも娘がいるんです」
克之はなんと答えたらよいかわからず、黙って男を見つめていた。
克之にかまわず男は続ける。
「その娘が再来週結婚するんです」
「それはおめでとうございます」
娘の自慢話をするのかと思ったが、ただでさえ下がり気味の男の眉はさらに下がっていた。
この男は何を言いたいのだろう、克之は少し興味を覚えた。
「私も昔娘とここへよく来ました。娘は桜が……特にこの桜が好きでして。
あの頃は枝がすっきりしていて、見栄えがありました。娘はいつもこう言っていたんです。
『桜が満開の中で結婚式を挙げたい』って」
「じゃあ、娘さんの夢が叶うんですね」
開花予想ではちょうど再来週に満開を迎えるはずだった。
今のつぼみのふくらみ具合を見ても予想どおりに満開をのぞめるだろう。
「はい。娘の夢が叶って親としても喜ばしいはずなんですが、
一方で桜が満開になってほしくないと願う自分もいるんです」
なるほど、それで男は桜の木を見上げてため息をついていたのだ。
桜が咲くと共に娘が自分だけのものでなくなってしまう気がして。
「たとえ桜が満開にならなくても式は挙げるのでしょう?」
「もちろんです。気分的なものだとはわかっています。……だめな親ですね。娘の結婚を素直に祝って
やれないだなんて」
「親なんてそんなものですよ」
咲紀が幼稚園の年長の時、好きな子ができたと騒いでいた。本人の話によると「まいにちらぶらぶ」
だったらしい。小学校が違ったために今は完全に音信不通となっているようだが、当時は話を聞いていて
非常に面白くなかった。
これが娘の結婚となったらもっと複雑な感情がわいてくるのだろう。
「結婚が決まるまではやれ早く結婚しろだの孫の顔が見たいだの言っていたのに、
人間というのはわがままな生き物です。親にとって子供はわがままで、
そのわがままを一番聞いてやれるのは親だと思っていました。でも、
本当にわがままなのは親の方なのかもしれませんね……すみません、こんな身内話をしてしまって」
男は少し顔を赤らめながらぽりぽりと頭をかいた。
「いえ、そんなことはありません」
同じ父親としては他人事ととらえることができなかった。
「気持ちが少しだけすっきりしました。そろそろ娘が朝食を作ってくれる時間なので帰ります。
結婚前の親孝行だそうです」
「娘さんにお幸せにとお伝えください」
男はにっこり笑って深々と頭を下げると、ゆっくりとした足取りで去っていった。
「お父さーん」
男が視界から完全に消えた頃、咲紀が戻ってきた。克之の近くにたたずむものに
気づいた咲紀は言った。
「さくら、まださかないね」
克之は娘を見た。自分も二十年後には彼と同じ思いをするのだろうか。
咲紀は桜はまだ咲かないと言った。同様に咲紀が嫁にいくのもまだ先の話だ。今考えてもしょうがない。
いずれにしろ時が来ればわかることなのだから。
「そうだね、まだだね。そろそろ帰ろう」
克之は公園を出る間際に、振り返って桜を見た。
離れて見ると枝にぽつぽつとつぼみがついているが、その色までは認識できなかった。
桜はまだ咲かない。
書き終わって気づいたら、桜の花が咲いていないという代物。遠くから見れば単なる枯れ木。
おじさん好きにしか喜ばれないような気がしなくもないです。
突発性企画「桜」参加作品。
さらに「ネット諸説紹介サイト LB」
でも素敵レイアウトで読むことができます。
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