……あれは数年前、まだ俺が大学生だった頃の話だ。
サァサァと降る雨の中、その人は傘も差さずに一人でたたずんでいた。
隣町の駅前、日曜の歩行者天国。雨とはいえ、人通りは多い。そのど真ん中に女性は立っていた。全身ずぶ濡れでかなり長い間雨に
打たれている感じだ。
長い黒髪が雨に濡れて艶やかに光る。黒のセーターに灰色のスカート、透けるような白い肢体に白いハイソックス。モノトーンの彼女
は目を引いた。通りすがる人々は一様に彼女に視線を送って過ぎていく。だが、誰も声をかけようとはしない。まぁ、
どう見ても訳ありっぽい感じだ。皆、面倒に巻き込まれたくないと、いったところなのだろう。
それでも俺は、自分の傘を貸そうと決めて彼女の正面に回った。そして人々がなぜ声をかけていかないのかわかった
ような気がした。
思わず呆けてしまうようなものすごい美人。気軽に声をかけてはいけないような、そんな雰囲気がある。だが、その目はどこにも
焦点があっていない。と、いうより……。
『見えていない?』
よくみると手には目の不自由な人が使う白い杖が握られていた。こんな人ごみの中で良くここまでたどり着けたものだ。
人波に流されてここまで来てしまったというのが正しいだろうか。
俺は勇気を振り絞って声をかけた。
「あ、あのっ」
「はい?」
透き通るように涼やかな声。その想像以上の美しさに、どきりと鼓動が高鳴る。
「かっ、風邪、ひきますよ? 俺の傘をお貸ししますから早く家に帰られた方が」
するとその人はにこりと笑って言った。
「大丈夫です。ありがとうございます」
そして軽く会釈をすると突然スタスタと歩き始めた。その様子はまるで目が見えているかのようで、慌てて再び声をかける。
「あのっ! お一人で帰れます? お手を貸しましょうか?」
女性はゆっくりとこちらに振り向いてその見えていない瞳を閉じて答えた。
「いいえ、大丈夫です。香りますし」
そのまま、なにかを嗅ぐかのように深く息を吸い込みながらうっとりとした顔をする。
「香る?」
一体なにが?
「キンモクセイです」
「え?!」
あたりをきょろきょろとくまなく見回すが、ここはデパートや駅ビルなどに囲まれ、地面はアスフォルトで一面舗装されている。
やはりキンモクセイの木などどこにもない。
「あの、キンモクセイなんてどこに……」
そう聞こうとして彼女が立っていた方を見ると、すでにいなくなっていた。俺はきつねにつままれたような感覚で
その場を後にした。
「なんだそりゃー。その女、頭おかしいんじゃないの?」
翌日大学で昼休みにそのことを友人に話すと、思い切り呆れられてしまった。
「でも……おかしいって感じじゃなかったんだけど……」
「おかしいよ。っていうか、おかしいって思わないお前もおかしい?」
そう言うと友人は食堂自慢の牛丼をかきこんだ。そう言われると確かにおかしいのかもしれない。
雨に打たれても平気な顔で訳のわからない言葉を言う盲目の女性。でも俺にはおかしいというより不思議な感じがした。
この世のものではないような。人間ではないようなそんな感じが。
もちろん、俺はこの世とは違う世界があるのを信じているわけではない。しかし、そんな雰囲気のする女性だったのだ。
「なにボケっとしてんだよ」
友人の一言で我に返る。
「いや……」
「なんだ? お前、その子に一目ぼれでもしちゃったのか?」
友人は米粒を飛ばしながら身を乗り出し、嬉々として聞いてきた。なんにでも恋愛に結びつけたがる、ヤツらしい行動ではある。
俺は半ばあきれながら返事をした。
「そんなんじゃないけどさ……」
……そう。そんなものではないが、気になって仕方ないのは確かだった。だが冷静に考えれば、たまたま外出先で偶然出会っただけ
の名前も知らない女性だ。もう会う事もないだろう。懸命に頭の中からモノトーンの姿を追い出し、目の前にあるうどんに箸をつける。
ややぬるくなったうどんは、少しのびていた。
しかし、数日後。俺はまた彼女を見かけることが出来た。今度は隣町の公園、やはり雨が降っていた。彼女は同じ服装でベンチに
ぼうっと座っていた。最初は目を疑った。こんなに都合のいい偶然というものはあるものなのかと。
しとしとと降る雨が彼女を濡らし、ぽたぽたと髪の先からしずくが落ちる。俺は心臓の鼓動を抑えながら慌てて彼女に傘を差し
出しながら声をかけた。
「あの……」
すると彼女は俺のほうに顔を向けて軽く首をかしげて言った。
「ああ。この間の傘の方」
「……なぜわかるんです?」
「声が、同じですから……」
ただ一度だけ聞いた声を覚えていられるものなのだろうか。そんな疑問も不思議とものの数秒で自然に消えてなくなってしまう。
彼女なら、なんでもありなのではないだろうか。そんな気分にさせられるような人だった。
「傘の方、なんてお呼びするのは失礼ですね。私は仙道律子と申します。貴方のお名前は?」
「宮本徹と言います」
「宮本さん……ですね?」
普段苗字で呼ばれないのでなにかこそばゆい。
「徹でいいです」
そうお願いすると彼女も
「それでは私も律子とお呼びください」
と言い、にこりと笑った。それは特上の笑みだった。思わず見とれてしまう。
――俺は友人に嘘をついたようだ。まちがいなく、彼女に惹かれてしまっている……。
そう、認めざるを得なかった。
「こんなのしかないけど、少し体を拭いてください」
そう言ってハンカチを出す。彼女はそれを受け取ると、顔を優しく拭いた後、長い髪を拭き始めた。あっという間にハンカチが水
分を吸わなくなる。それを何度も絞って繰り返し彼女は髪を拭いた。同じ傘の下、しばし沈黙の時間が続く。このまま傘を渡して去
ってしまえばいいのだろうが、せっかく会えたのだからせめてなにか少し話でもしたい。だが、なにを話していいか浮かばない。
とりあえず、お約束どおり天気の話などしてみる。
「……今日も雨が降ってますね」
「そうですね」
そしてこれまたお約束どおり会話が続かない。俺ってこんなに純情だっただろうか。上手く働かない思考に、焦りでじわりと手に
汗が浮かんでいるのを感じている。すると彼女のほうから口を開いてくれた。
「雨はキンモクセイを散らしてしまうので……寂しいです」
またキンモクセイの話である。この間の駅前のコンクリートジャングルとは違い、たしかにこの辺りならばまだ咲いてはいないが
キンモクセイの木もある。なにか思い入れでもあるのだろうか。
「キンモクセイがお好きなんですか?」
「はい、大好きです。ただ……ちょっと悲しい思い出もありまして」
彼女が急にとても寂しげな表情になったので、どきりとして思わず訊ねてしまった。
「なにかあったのですか?」
ああ、しまった。こういう類の質問ってほぼ初対面の人にものすごくぶしつけでないだろうか。激しい後悔の波が押し寄せる。
しかし、彼女はごく自然にそれについてゆっくりと答えてくれた。
「前にキンモクセイの木のところに落し物をしてしまって。それを誰かが道を整える時に埋めてしまったらしいのです」
「落とし物?」
「指輪です……彼からもらった」
……いきなりの失恋である。そうだよなぁ。こんなに綺麗な人に彼氏がいないわけがないよなぁ。がくりと肩が落ちるというのは
こういうことをいうのか、という感じだ。消沈した心でちらりと隣を見ると、彼女はその見えていない瞳に涙をいっぱい溜めていた。
こういうのに、めちゃくちゃ弱い。
「どこらへんだか分かるんですか?」
「え……? だいたいの場所は」
「……教えてください。その場所と指輪の特徴」
……自分でも無謀だとは思ったのだが。俺は律子さんの指輪を探すことを約束してしまった。
彼氏のいる女性の。
しかもあったばかりの女性の。
彼氏からもらった指輪を探してやる俺って一体。
そう思いながら数日後、晴れた日を選んで彼女に教えてもらった場所へ深夜に足を運んだ。初めて彼女と出会ったあの歩行者天国
の通りからほど近い場所にある裏通り。そこはキクモクセイ並木のあるさびれた商店街だった。ざっと数えても3・40本はあるだ
ろうか。
「まじかよー……」
少しずつ咲き始めた大量のキンモクセイの匂いにむせかえる。これだけ香りの強い木をよくこんなにたくさん植えたものだ。
しかも商店街だぞ? あきれながらも一本、一本、木の根元を掘り返す。これって誰かに見つかったら俺は捕まるのではないだろうか。
まぁそれを考えての深夜の作業なのだが。
「うー……これも違う」
土だらけの自分の手の中にあるナットを、持ってきたゴミ袋に捨てる。案外この作業って環境に優しい?
そんな下らないことを考えながらもくもくと掘り続ける。そうでなければやっていけなかった。
それは連日連夜続いた。スリル満点の、結構ハードな作業であったが、指輪を見つけられたとの彼女の笑顔を考えると苦には
ならなかった。自分ってなんてお人よしで、なんて馬鹿だろうとは、思ったが。
そして5日の夜。おりしもその夜は満月で、比較的手元が明るかった。いつもどおり必死でこそこそと掘り返す。
そしてその日3本目の木の根元を20センチほど掘ったところで掘り返した土の中から他のものとは違う鈍い光を感じた。
「嘘っ……マジで?!」
丁寧に、土をどけていく。俺の小指にはめるとちょうどぐらいの細いリング。土にまみれたそれを自販機で買ったミネラルウォーター
で綺麗に洗うと、自分の手の中に銀色に輝く、装飾の無いシンプルな指輪が姿を現した。裏に「T to Ritsuko」と彫ってある。
間違いない。律子さんの指輪だ。俺は飛び上がるほど喜んだ。
「やった! 見つけた! 見つけたぞぉっ!」
しかし、すぐ平静に戻る。
「そういや……律子さんの連絡先知らないよ……」
馬鹿もここに極まれり。俺は肝心な彼女の連絡先を聞くのを忘れてしまっていたのだ……。
「せっかく見つけたのに……」
そんな俺の上にタイミング悪く雨が降ってきて、余計にへこませてくれる。慌てて側の店の屋根の下に逃げて雨宿りすることにした。
月は見えているというのに、結構激しい天気雨である。……最悪だ。
そもそも。この指輪を見つけたからといってあの笑顔が俺のものになるわけではなく、彼女は彼氏のものであるわけで。
……寒さも相まって、だんだんと思考がネガティブになっていく。こんな気分になるために指輪を探したのではないのに。
……手のひらの指輪をぎゅっと握り締める。頭(こうべ)は自然にたれていた。
すると突然視界に人の足元が入ってきた。黒い靴、白いハイソックス。視線をゆっくりと上へと上げてみる。灰色のスカート、
黒いセーター、黒いぬばたまの髪。……律子さんだ。
「徹さん」
「律子……さん」
「ありがとう見つけてくださったのですね」
彼女は俺のこぶしを見てそう言った。
「なぜ……」
なぜこの手に指輪が握られているとわかったのか。そういいかけて言葉を飲み込む。そういうことを彼女に聞くのは、
もうやぼな気がして。
「はい。これでしょ?」
見つけた指輪を静かに彼女の手に握らせる。指にはめるのは、彼氏の仕事。俺の仕事は、ここでおしまいだ。
「よかった。本当によかった……。ちょうど雨も止みましたし、これで私、彼のところへ行けます」
律子さんは予想通りのふわりとした幸せそうな笑顔を浮かべたあと、くるりと後ろを向いて歩き出した。彼女の白い杖が右左に動き、
地面で軽くこすれてしゃっしゃっと音を立てる。俺はその動きを追いながら、視線を歩道から車道へとうつしていった。
「……あっ!」
キンモクセイが、雨で全て落ちてしまっている。それもなぜか全て車道側にだ。そのため車道は一面にキンモクセイの花を敷き詰めた
状態になっていた。
「これはいったい……」
歩いていく律子さんの後ろ姿に問いかける。その時、俺は気がついた。
遠く、キンモクセイの絨毯の遥か遠くに男の人が立っている。律子さんはその人の元へ歩いていっているようだった。
……複雑な思いに言葉が出なくなってしまう。
「ああ、貴方。今、参ります」
月の光に照らされて、きらきらと輝くキンモクセイの絨毯。その上を律子さんが静々と歩いていく。
杖を捨て、まるでバージンロードを歩く花嫁のように歩いていく。そして彼女は男性のもとへたどり着くとそっと寄り添い、
二人でこちらを向いてぺこりと一回おじぎをして消えていった。そう文字通り「消えた」のである。
夢現か、幻か。やはり彼女はこの世の人ではなかったのか。それでも俺の土に汚れたズボンが嘘ではないと語りかけていた。
後日。俺は再びあのキンモクセイ並木のある商店街に行ってみた。そして愕然とする。
そこには、商店街などなかった。道幅の広い道路の横に派手な商用ビルがたくさん建っているだけだ。
何度も確認したがここで間違いないはずなのに。
気になった俺は近所の人にいろいろ聞いて回った。そして、とうとう彼女たちの話らしきものを知ることが出来たのだった。
このあたりは数十年前まで本当に商店街だったらしい。表通りが混んでいる時は裏道として使う人たちもいて、
狭い道に車が飛び交う事故多発の危ない道だったという。
そして、ある雨の日。
買い物をするために来たカップルが、後ろからすごいスピードで走ってきてスリップした車にひかれ亡くなった。
どこでもあるようなその事件を近所の人々が記憶に残していたのは、ひかれた女の子のほうが盲目の人が使う白い杖を持っていたのと、
しきりに「指輪が……」と、つぶやきながら現場で息を引き取ったからだった。その後すぐ、ここは道幅を広くするために工事が
行われた。そして今の通りになったのだという。
たぶん、彼女は彼にもらった指輪をひかれたとき落としてしまったのだ。それで成仏できずにずっと探していたのだろう。
そしてあの夜、その大切な品を手に入れた彼女はやっと彼の元へいけたのだ。キンモクセイの香りが案内する、
天国へのバージンロードを歩いて。
なぜ彼女が俺を選んだのかはわからない。しかし、俺が彼女に一目で魅入られてしまったのは確かだ。
……そこを彼女にいいように使われてしまったのだろうか。
それでもよかった。彼女のあの幸せそうな笑顔が見られただけそれでよかった。馬鹿だと言われるならばそれでもいい。
確かにあの笑顔を見られたとき、俺は幸せだったのだから。
今でも秋になるとキンモクセイの香りと共に彼女を思い出す。
切ない気持ちと共に思い出す。
あの雨あがりの花嫁を。
「Cafe de Madame Vret」の平塚ミドリ様より20000HITのキリリクでいただきました。
テーマは「キンモクセイ」もしくは「雨の中の出会い」だったのですが、両方扱っていただいてしまいました。ありがとうございます。
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